方丈便り 第2号 中学3年生 04・04・14(水) 発行者:橋本
「fair」と「公平」
「fair」という英単語を知っているだろうか。(cf. air,hair,pair,chair)
「フェアプレーのフェアだよ。」といえば多くの人は見当がつくだろう。
そう、「公正な・公平な」などといった意味で、日本でも広く一般的に用いられている。
しかし、英語の「fair」と日本の「公平」は、少し意味合いが違うようだ。
日本の公平観は「特別扱いせず全てを同じように扱う」といったものだろう。
日本の国技でもある相撲に代表されるように、日本の格闘技には階級といった概念はなく
体の大小に関わらず皆同じ土俵で勝負する。柔道も本来、体重による階級は存在しなかった。
たとえ体格に恵まれていなくとも、技やスピードを武器に自分より大きな相手に打ち勝つ。
「柔よく剛を制す」とはよくいったもので、それが日本人の美徳なのかもしれない。
しかしこのような考え方は世界的にみればむしろ少数派らしい。
体の大きな人間が、明らかに自分より小さな人間を相手するのは「fair」ではないのだ。
ボクシングなどに代表される階級の概念はそこからきている。
つまり「fair」は「対等な条件の下で」といったニュアンスがあるのだ。
格闘技に限らず、オリンピックで行われるような世界的なスポーツでは
一国がメダルを独占し続けた場合などに、ルールを変更する場合があるようだ。
乱暴な表現をすると「弱者には下駄を履かせ、強者には足かせをつける。」
やはり日本の公平観とは異なるように感じないだろうか。
(この考え方の相違は、貿易などを含む外交上の問題にもなってきた。)
もちろんどちらが「良い悪い」の話ではない。
英語に限らず、「言語」というものは、気持ちを伝える「手段」にすぎない。
そしてそれは、人によって受け取り方が違う不完全なものだということを知っていて欲しい。
相手の気持ちを少しでも理解するために、あるいは自分の気持ちを少しでも
正確に伝えるためにはどうしたらいいのだろう?
相手にハンディキャップをつけることは失礼にあたる場合もある。
君達自身も自分に「ハンデ」がつけられることを不満に思ったことはないだろうか。
もし君が周りの人間に対等に扱って欲しいと思うなら、どうか自分の行動を振り返って欲しい。
家庭での生活はどうだろう? 学校・塾での生活はどうだろう?
自分のできること・すべきことを、今、しているだろうか?
反対に、「下駄を履かせて欲しい」と考えるなら決して思い上がってはいけない。
自分の要求はする、しかし相手の要求には応えない。
そんな関係は公平でもフェアでも対等でもなんでもない。単なる「甘え」だ。
いずれ皆、自分で自分の責任を負うようになる。
その責任ある立場(自由)を自ら望むか、時の流れに任せるかは、君達自身の問題だ。