方丈便り 第18号 中学3年生 04・09・18(土) 発行者:橋本
「歳をとる」ということ
君達は「歳をとる」ということに対してどのようなイメージを持っているだろうか。
いつの時代でも、若さを保つための努力は最大限なされてきたようだ。
しかし、今日に至っては、老いに対するイメージはあたかも
それ自身が「悪」であるかのような印象すら受ける。
私は小さい頃から、とにかく早く「大人」になりたくて仕方なかった。
「自由」や「権利」、「責任」までもが、「一人前の証」のようで嬉しくてたまらなかった。
それは二十歳を過ぎた今でも変わらない。
大人になった今でも、私は「大人」を目指しているのだ。
では「大人」とは一体何なのだろうか?
おそらく経済的にも、精神的にも「自立した人間」を指すのだろう。
実際には、二十歳を過ぎても経済的に自立していない人は数多くいる。
かくゆう私も、精神的な自立という意味では、胸を張って「大人だ」と断言することはできない。
「歳をとる」ということは、「ただ生まれてからの時間が経つ」ということとは違う。
仮に「何」もしない人生であったとしても、その人生には必ず意味がある。
人は(だけではないが)「生きている」、ただそれだけで、必ず意味があるのだ。
「歳をとる」とは、「それまでの過去を背負って生きる」ということだと私は思う。
今の自分に自信をもてるかどうか、それは今までの自分次第であるし、
未来の自分を支えるのも、今、これからの自分でしかない。
「歳をとる」ことは恥じることでは決してない。
「生きて無駄な時間」などただの一時もあろうはずがないのだから。
ただ、同時に「輝きを放つ時間」というものは存在する。
そう考えると、やはり私は「歳をとる」のが楽しみでならない。
十年後、二十年後、三十年後の自分の顔はどんなだろう。
その「顔」は、今、刻々と作られているのだ。
英語には「先輩・後輩」にあたる言葉は存在しない。
人間関係において「歳」はそれ程関係のない社会なのだ。
しかし、儒教の影響をうけた日本には、年長者を敬うという思想がある。
幼い頃の私は、この習慣や道徳観が窮屈で仕方なく、英語圏の文化にかぶれた時期があった。
それは「年上は、年上なだけで偉いんだ」と誤った解釈をしていたからだ。
今でもそんな勘違いをした人が、私の回りにいることもあるが、全く気にならなくなった。
年長者を敬い、後輩の面倒をよくみることは、結果自分の生活、人生をより豊かにしてくれる。
そう思えるようになったから。
さて、明後日20日、月曜日は「敬老の日」だ。
君達も是非自分で、「敬老」の意味を見つけだして欲しい。